「真の自分らしさ」が現れる『自分史』で自己紹介

自分史の棚卸しをすることで、自分とは何者なのかが理解できた。

「ジャイアントキリングをさせる」

これが僕の人生のキーワード。

ジャイアントキリングとは、弱者が強者に勝つこと・下剋上・番狂せのことを意味する表現で、短縮して「ジャイキリ」とも呼ばれることも多い。

とにかく、
「今燻っているけれど、今に見てろと野心がある状態の人やチーム・組織」
の側にいる時が、

「ゴール達成に必要なチューニングをする」
という僕の強みは大きく発揮される。

そして、失敗しても何度でも立ち上がれるのが自分の強みで、それはゴール達成を諦めないようなゴール設定をしているから。

そんな『真の自分らしさ』が何度も表れていることが、3.1万字の自分史を書くことで見えました。

目次

【幼少期】

匹田家長男として1990年1月4日に長崎県対馬市にて生まれる。両親共に長男・長女であるため、両家共に初孫で、大変喜ばれてこの世に誕生した。
福岡県糸島市で育つ。
父はIT企業の会社員。
母は、結婚を期に小学校の先生を退職し、主婦業に。

1歳の誕生日の「選び取り」では筆をとったようだ


幼少期から両親、祖父母を困らせるくらい動き回る子どもで、毎年長期休暇は対馬の祖父母の家で過ごしたが、祖母が言うには、少し目を離すと僕はそこにはいなくなり、探し回らなければならなかったという。

とにかく様々なものに興味をもち、それに触れては感情を昂らせ、しばらく熱中し、飽きて、また新しく熱中できるものを見つけてはそれに興味を示す。
それを繰り返し、毎日を過ごしていた。

運動することが大好きで、特に、父が当時休日にやっていた草野球についていっては、野球の練習をし、どっぷりと野球にはまっていた。虫取りや秘密基地作りも好きで、珍しい生き物を捕まえたり、自分だけの秘密の基地を見つけて、そこで遊ぶのが好きだったが、少し経つと飽きてしまって、また野球の練習をするというのが良くあるパターンだった。

そんな多動極まりない僕の現状もあり、母は国立の小学校を受験させることを決め、幼稚園に行った後は電車で塾に通い、受験勉強をする。

勉強することは嫌いではなかったが、じっと長時間座っていることがとにかく耐えられず、母親からの叱咤激励を受けながら、小学校受験勉強に取り組む。
結果は見事合格し、電車通学が必要な国立の小学校に進学する。

幼稚園でも多動性を大いに発揮していた

【小学校】

小学校は、実家から電車と徒歩で50分くらいかかる場所にあり、電車で友達と一緒に通学した。

低学年の頃は特に、多動性を大いに発揮し、先生を困らせることも多かった。

色々なことに着手し、張り切って関わるが、少し経つと飽きてしまうことが多く、自分が本当に何を手に入れたいのかを、様々な物事を経験しながら探していたように感じる。

学校生活では、毎日とにかく朝早く学校に行って、友達とサッカーやキックベース(ボールを蹴って打つ野球)をしていた。

運動は得意だったので、仲間内でいつもリーダーシップをとって、仲間集めをして、休み時間になると外で遊びまくる生活だった。

その遊びのチーム決めをする時には、いつも自分が中心になっていた。

じゃんけんをして勝った方から仲間を決めていくシステムだったが、自分ともう1人の運動が得意な子でじゃんけんをしていて、もちろんサッカーやキックベースをする試合も大好きだったのだが、その自分が決めたメンバーでサッカーやキックベースをするその状況そのものがとても楽しかった。

特に燃えたのが、自分のチームの方がメンツ的に弱い時で、そんな仲間の中心になって士気を高め、戦略を練り、相手を倒した時の爽快感と、仲間内でもその話に持ちきりになるあの感じは、最高だった。

また、小学校あるあるだと思うが、クラスみんなで遊ぶ日みたいなものが係活動で決まっていて、それをやる日は全然ワクワクしなかった。

このみんな遊びの日は、遊びを仕切るのが自分じゃないため、無意識にモヤモヤし、フラストレーションが溜まって、必ず問題を起こして先生に叱られていた。

今考えると、自分が仕切っていないことが面白くないのと、仕切っている人が上手に仕切れていないことにイライラして、この「遊ぶ時間」という最高の空間を邪魔されたような感覚になっていたのではないかと思う。

小学生の時は、授業時間も積極的に発言をしていて、クラスのムードを自分が作っている感じに面白さを感じていた。

喧嘩することも多かったけれど、何事も自分が中心になってその場をつくり、それも含めて認めてくれる先生や仲間がいて、自分らしさ全開の最高の小学校生活を過ごしていた。

相撲大会など、行事も多い小学校で、自分らしさ全開で楽しんだ

この学校は、エスカレーターで進学できる附属の中学校もあってそこに進学することもできたのだが、小学校の低学年から学習塾にも通っていて、塾の周り友達の雰囲気も受験をしていく雰囲気だったのと、両親の勧めもあって、私立の中学を受験することにした。

ただ、ここで分かったのだが、塾の勉強は正解を覚えるという作業をすることが多く、勉強をしてもテストの点数でしか頑張ったことが返ってこない。そんな受験勉強というものがあまり好きになれず、塾の宿題などにはあまり真面目に取り組まなかった。

ただ、授業を受けるのは好きだし、塾で仲間と勉強することは好きだった。場の雰囲気を自分で作れるからだったと思う。

当時から、やり抜くということは好きで、自分がイメージしたことが現実になる感覚が面白かったのもあり、勉強でもそこそこの結果を出し、当時志望していた中学校に合格し、進学することができた。

決めたことをやり抜くことが好きなので、ちょうど志望した中学校にギリギリ合格するというところまでしか勉強は頑張らず、その他は相変わらず友達と遊びまくっていた。

遊びは、小学校でやっていることと変わらず、仲間を集めてサッカー、野球、ゲームもしたし、虫取りなどで、どんどんリーダーシップをとって楽しんでいた。
ただ、自分がリーダーシップを取れないものは、全然楽しめず、リーダーシップを取るために陰で練習したりもしていた。

小学校の頃は、習い事もたくさんしていて、母親がこれやってみない?と僕を連れて行ってくれて、体験したことがないことはほとんどやってみたいと思う子どもだったので、どれもとりあえず「やる!」と言って始めた。

ピアノ、習字、水泳、英会話、ソフトボール、塾など、一通りやったが、ある程度やると飽きてしまい、塾以外は続けたものはなかった。

【中学校】

男子校の中高一貫校に進学したので、ここから6年間同じ仲間と過ごすことになるが、色々な意味で大きなターニングポイントとなる事件がいくつも起こる、中身の濃い6年間だった。

挫折が自分自身を変革に導いていたように思う


中学校での成績はまずまずだった。順位で言うと真ん中より少し上くらい。

ただ、授業のスタイルも完全に講義型になり、出席番号順に当たっていくみたいな形で発表する場面も少なくなっていった。

自分が場の雰囲気を作る機会が減れば減るほど、勉強に対する熱量が下がっていき、勉強もしなくなっていった。

勉強はせずに何をしていたかというと、サッカーをしていた。

小学校の時まで野球が大好きだったにも関わらず、何の下調べもせずに周りに勧められるがままに受験する中学校を決めたので、受験する直前までその学校に野球部がないことを知らなかった。

絶対に野球をするという大きな熱量もなかったので、そのまま進学し、サッカー部に入部した。

運動するということが大好きな仲間がいて、初めての部活動というものを経験し、スポーツを仲間とやりまくるという楽しさを経験した。

部活動が終わったら、サッカー部の友達とだらだら話し、公園でまたサッカーをして、夜遅くに家に帰り、寝る。
これを繰り返していたので、当然勉強などせず、成績も下がっていった。

親からも勉強しなさいと常に言われ続け、思春期真っ盛りの僕は、それに大いに反抗し、親と話すこともみるみると減っていった。

そんな中、中学3年生の中体連でターニングポイントとなる事件が起きる。

通っていた中学校のサッカー部は元々とても弱く、市大会に出場どころか、1回も勝てないまま中体連が終わるということもザラにある部活動だったが、僕たちの代は血の気が多い選手が多く、今年は市大会出場もあるのでは?というところまで実力がついてきていた。

そこで、目標を市大会出場と掲げ、中体連に望んでいたのだが、この試合に勝てば市大会出場という大事な試合で、僕はやらかしてしまう。

僕はFWのポジションで試合に出場していたのだが、0対0で迎えた後半、スルーパスに抜け出した僕は、キーパーも抜き去り、得点かと思われたが、何と無人のゴールにシュートを入れることができず外してしまう。

ここで士気が下がってしまったチームは、相手も格上だったこともあり、ズルズルと得点を入れられ、敗戦してしまう。

敗戦の矛先は僕に向き、ここからサッカー部のメンバーとの間には溝ができた。
仲間だと思っていた人からこんなに簡単に無視されたりすることが起きるのかとも思い、気まずい時期だった。

今までの人生でこんな風に自分が仲間の輪から敬遠されるような経験をしたことがなく、もっと言えば、自分がコントロールする場面ばかりだったこともあり、何とか今までの関係を取り戻そうとしたが、共通の目標もなくなり、今考えると、サッカーが好きということで繋がっていた関係だったため、心も離れていく。

何か、心に空白が残ったようなそんな時期を経て、高校に進学することになる。

【高校】

高校でまた、人生の転機を迎える。

高校でも転機があり、人生本当に何が起こるかわからない


新1年生に対して行われる新入生オリエンテーションで、応援指導部という部活動が(正式には生徒会の中の組織なので組織図的には部活動ではないのだが)チアリーディングというものを披露してくれる。

僕自身はその時心が動くようなことはなかったが、友達がその部活に興味をもち、練習に参加しに行ってみようと誘ってくれ、一緒に行ってみた。

当時、「ウォーターボーイズ」がTVや映画で流行っていて、それをみて熱い青春を、このむさ苦しい男子校で送りたいと強く願った初代、二代目の先輩たちで立ち上がったのがこの部活だった。

まだ出来立てほやほやで、創部1年目。初めての新入生が僕たちで、先輩たちからも温かく迎えてもらい、バク転やバク宙、スタンツと言われる組体操の強化版みたいなものを男ばかりでわいわいと作り上げていく楽しさにはまり、入部。
ここからチアリーディングにどっぷり浸かる人生がスタートする。

高校1年生の夏、初めてチアリーディングの大会に出場することになる。
技が完成するまでみんなで頑張るあの何とも言えない一体感。
そして、コーチから叱咤激励を受けながら、演技完成まで何度もチャレンジし続けるという、苦しみもありながらの楽しさ。

大技ができた時の喜び。

先輩たちのこの時間にかけている熱量。

全てを肌で感じながら大会本番を迎え、観客からの大きな声援を受け、高揚感も最高潮になりながらミスのない演技をやり切った時の達成感が最高すぎて、チアリーディングって本当に面白いと感じた。

小学生の時にピアノをやっていたこともあって、音楽に合わせて技を次々に繰り出していく躍動感に何か共感を覚えた。

そして、チアリーディングという競技がそもそも、人を応援するという特性をもっているため、他のチームが演技している時には見ている選手たちは、その演技を応援するという文化がある。

お客さん以外にもその場にいる全員から声援を受けるあの感じもたまらなく面白かった。

ここから1年がサクセスストーリーで、初代の先輩たちが引退し、2代目の先輩たちに代替わりをして迎えた夏の大会で、初の全国大会出場。

そのまま全国大会決勝進出と、全員男子のチアリーディングチームがあれよあれよとかけ上がり、チアリーディング界で旋風を巻き起こすことになる。

その過程でもたくさんのドラマが起こり、仲間と共に苦しさも楽しさも乗り越えていくその時間は一生の宝物になる。

それから1つ上の先輩たちも引退し、代替わりして自分たちの代になった時に、場をコントロールする楽しさを発揮し、それまでもチームを牽引していた自負があったので、キャプテンになるかなと思っていたが、キャプテンには指名されず、悶々とした。

代としても中々噛み合わず、結局最後の夏の大会も、全国大会には出場するものの、本番でもミスが多発する演技で、青春はしたのだが、結果を出せず、後悔を残して3年間を終えることになる。

初代、二代目とこの部活動を熱さで作り上げてきたメンバーが抜け、部活動としても、ここから本当に新たな出発だったのが僕たちの代。

そんな中で、20名ほどの新入生を勧誘し、次世代に繋げたこと。

後輩たちが、本当にチアリーディングを楽しみ、チームを愛し、スタートしていったこと。

そんな文化をつくれたことに大きな価値を感じたのが、チームを卒業する時の景色だった。

そんな部活動一色の高校生活だったが、それ以外の学校生活はというと、サッカー部でのミスを引きずったままの人間関係で、その清算も何となくしっくりこないまま教室での生活を過ごす。

この頃には、部活動での新たな人間関係もあり、教室での人間関係を取り戻すことに執着することもそこまでなかったので、前を向いて進んでいたと思う。
ただ、人の目を気にし、どう思われるかを気にしながら教室での生活をしていたため、人をリードする立場でありたいというwant toに蓋をした状態の時間も多かった。部活動でのゴール以外にも、勉強のゴールなども明確にしていると更に面白い学校生活を送れていたと思う。

コーチングの理論を早く知っていて、当時コーチがついていてくれたなら、また違った未来が開けていただろうなとも感じる。

勉強は相変わらずそこそこで、宿題を出さないと平常点がもらえず、進級できないので、その場その場をしのいでやりくりしていたし、そもそも勉強に身を入れてやっていなくてそこそこだったので、逆によくやっていたなと思う。

当時、チアリーディングの指導をしてくれていたコーチの教育に対する熱量、そして、夢を追いかける人の伴走する姿勢を見て、こんな教育者になりたいと感じたのと、親や祖父の勧めもあって小学校教師の道へ進むことを決めた。

その道に進むために受験しようとしている大学が、センター試験と二次試験は国語のみで小中高の教員免許が取得できるというところだったので、幼少期から物語を読むのが大好きで、国語がかなり好きだったこともあり、これなら確実に大学に進学できるぞと、ほぼ即決でその大学の学部を受験することを決め、部活動を引退してからの半年のみの勉強で大学進学を決めた。

今振り返ると、そもそも目標に対してチューニングをするのが得意で、自分のゴールに対しても個別化とアレンジの能力を発揮して、自分の得意なものはこのくらいの点数は取れそうだから、この勉強はこのくらいすれば、目標の合計点数は取れるだろうと逆算して、実際のセンター試験でもギリギリその点数をとって合格するということをやってのけている。

自分の才能はこの時点でかなりはっきりと出ていたんだなと今となっては思う。
こうやって人生を振り返ると分かったが、やると決めたら、決めたところまでは必ずやり切れるのが自分らしさだった。

【大学】

大学生活は、アルバイトとチアリーディングに明け暮れた。

大学の教育学部に進学したが、教育の理論には興味が全くわかず、高校の時と同様に提出物は誰かのものを丸写しして、テスト勉強もほぼやらず何とか及第点はとるクズさであった。

単位は全て取得し、無事卒業。

教員採用試験も3カ月くらい勉強して、一発で合格する。

ただ、本当に勉強した記憶が全くなく、何しに大学に来たのかという最低の大学生であった。

大学時代の経験もまた、今となっては人生に大いに生きている

大学進学した後、約1年間は、チアリーディング選手をやっていない期間がある。遊び倒したいと思っていたが、その時何をしていたかというと、高校のチームの指導に行っていた。

自分たちの代でやれなかったことを、後輩たちにさせようという、正に悪いマインドの状態=「投影」をした時期だ。

コーチングで、投影は本音の欲求ではないと判断する。例えば、親が大学に行けなかったから、子どもは絶対に行かせるみたいな、自分のできなかったことや、やってもらったことを人にさせようという話だ。

これは、そもそも過去の自分を引きずって、それを誰かに投影しているという、かなり拗らせている状況で、未来から時間は流れているというマインドのカラクリに反する良くない状態だった。

僕としては、後輩の指導を一生懸命やって、実際に後輩たちの代では全国大会決勝進出し、目標達成していたが、それをやっても満たされることはなく、むしろそんな後輩たちの様子を間近でみて、自分はこのままで良いのだろうかと余計考えるようになる。

何も一生懸命やっていない状況の自分に嫌気が差し、それを脱却するために、チアの社会人クラブチームに入部を決め、入部してすぐの全国大会で、この社会人チーム創設後初の全国大会決勝進出を果たす。

しかし、ここからがこの社会人チームの衰退の始まりで、全国大会までの頑張りを経て、やり切ったと引退するメンバーもいて、次の年は決勝進出ならず。

そして、それを機にどんどんメンバーが減っていって、10人くらいまでメンバーが減ってしまう。これが大学生の間のチアリーディングキャリアである。

アルバイトでは、最初に個別指導塾講師のアルバイトをする。
中学生に国語や数学の指導をするのだが、ここで出会った塾長の人柄に全く共感できなかったので、2か月ほどで辞める。

次に、時給が680円と当時の最低賃金からのスタートだったが、賄いが食べれるということに憧れ、居酒屋のアルバイトを始める。
この居酒屋との出会いも、人生の中で大きな出会いで、とにかく店長が厳しかった。

女性店長だったのだが、礼儀や気遣い、協調性を厳しくご指導いただいた。

大学で部活動をしたわけではないので、酒の場でのマナーや礼節を全く知らなかった僕に、1から指導してもらうということを、お金をもらいながらやらせて頂いたということは、本当にありがたいことだった。

店長1人とアルバイト1人で、客席36席ほどのホールとキッチンを全て回すという荒技をする(結構人気店だったので、よく満席になり死ぬ思いをした)という経験をしたおかげで、「捌く」という能力を身につけることができた。

この経験のおかげで、この後小学校の教師になったあと、どうでも良いと感じる仕事をとにかく無心で短時間で捌くということが自然とできた。

合わせて、時給7000円という破格で塾講師のアルバイトをする。受験する中学生30人ほどに一斉授業をするというのが仕事だったのだが、この時から授業準備はほとんどせずに、あっという間に授業の中身はつくれた。
なので、苦もなくこのアルバイトをやらせてもらって、お金を稼いでいた。

大学3年生からは、ずっとやってみたかった草野球をやる。

草野球のサークルに入って、草野球をし、終わったらチアリーディングの練習に行き、終わったら居酒屋のバイトに行くというサイクルを繰り返し、とにかく楽しく充実した毎日を過ごしていた。

飲み会も好きで、コールをかけながら場を盛り上げる、あの場をコントロールしている感覚が好きだったし、親密な仲間たちと話しながらお酒や食事を楽しむ空間自体が好きだった。

そんなこんなで、4年生の8月のチアリーディングの全国大会を準決勝敗退という結果で終え、3ヶ月間だけ必死に教員採用試験の勉強をして無事合格し、大学を卒業。

小学校教師としてのキャリアをスタートする。

【社会人〜20代前半〜】

小学校教師でも波乱万丈だった

教員採用試験に合格し、新年度から教職につくために研修を受けていたのだが、研修の途中で次の研修の時間変更があった。(しかもこの時がなんと初任校の校長先生との顔合わせの日だった)

しかし、その時その時間変更をスケジュールに入れておらず、当日の朝、紙面にメモしていたのを見て、既に研修が開始されているのに気づく。

気づいてすぐに教育委員会に電話を入れ、お詫びを伝えたが、受け入れてもらえず、「もう来なくて良いです。」とのこと。

これはまずいことになったと、来なくて良いと言われながらも、研修場所に行き、改めて謝罪をすると、また追って連絡しますと言われる。

連絡を待っていると、電話がかかってきて、教育委員会に来なさいと召集された。

教育委員会に行くと、お偉いさんが数名いて、大いに叱られた。

これを機に、1年間正採用ではなく、講師として経過観察をすると言われ、初任から担任をしたのだが、1年間のうちに数回、教育委員会のお偉いさんが教室に現れ、素行チェックをされる。

この時、本当は正採用として赴任される予定だった学校に講師として赴任した。
そして、1年間「修行」のような形で毎朝1時間半前に学校に行き、当時の教頭先生と一緒に校門の掃除をした。

毎日欠かさずに行って、教頭先生と掃除をする中で、掃除をしながら細部にまで気づける目を養いなさいと教えていただき、1年間やり切ったことは大変だったが有意義だった。
教頭先生にも可愛がっていただき、今考えると貴重な1年間だった。

一方で、教育委員会に2月頃に再度呼ばれ、「なぜ今年の採用試験を受けなかったんだ?」など聞かれる。
そんなこと考えてもいなかったので、驚いた。今年1年間、経過観察をすると言われていたので、今年やり切ったら正採用になるんだと思っていたからだ。

この時から、「なんとかなる」というマインドは働いていた。

上記のように教育委員会のお偉いさんに伝えると、社会人とは何かというレポート提出を命じられ、それを提出した。

そして、恐らく当時の学校の校長先生などの働きかけもしていただいていたのだろうと思うが、年度末採用という形で、次の年から改めて初任者として正規採用されることとなる。

次年度から新しい学校に赴任し、前年度学級崩壊をした学級が複数あった学年の担任をすることになるのだが、この学校に赴任して数日する間に、小学校の先生たちの雰囲気に大きな違和感を感じ始める。

変化を嫌う職場の雰囲気。
ベテランの先生たちが率先して嫌ごとを避ける雰囲気。
特に生産性を感じられない会議や、ロジックのない発言の数々。

このままこの環境にいたら、自分はとんでもない人になってしまいそうだ。こんな大人にはなりたくないと真っ直ぐに感じる。

小学校の先生を定年まですることはないなと感じながら1年目。とんでもない荒くれ者たちを同学年の先生たち、初任者指導の先生に支えていただき乗り切る。

そんな子どもたちとの出会いは凄まじく、教室に入ってすぐに感じた教師に対する不信感。

どうせお前も正義感を振り回して俺たちのことはわかってくれないんだろ?と言わんばかりの斜に構えた眼差し。

そして、今年はどんな感じになるのかという不安と少々の期待。

子どもたちも最初は猫を被っていて、少々の理不尽も聞いてくれるのだが、段々とそれもなくなり、反抗的な態度も見せ始める。

自分自身もまだ教師2年目で、分からないことも多かったのだが、この子達と接する中で感じたことが一つ。

本気でその子たちの未来を思って、その子たちのためにとった行動や言葉は受け取ってもらえる。

一方で、自分の保身や楽のために行っている言動は受け取ってもらえない。

子どもたちは本当に残酷であり、素直なのであった。

その中でも最も手のかかったAくん。

1年間かなりの数ぶつかり、たくさんの涙を流してもらって、素直でキラキラした素敵なところが出てきた。

コーチになった今となっては分かるが、子どもたちもマインドのカラクリは全く同じで、彼らの前進を妨げているものを一つ一つ紐解いていくことで、あっという間に離陸し、自身の夢(ゴール)に向かって進んでいく。

Aくんと接し、彼の成長を目の前で見させてもらう中で、僕自身も大きく学びのある時間になった。

チームの責任を引き受けることで、人生が動き出した

社会人として、小学校教師としてのキャリアをこのような形でスタートさせると同時に、チアリーディングのクラブチームでは、チームの衰退を止めるべく、メンバーにキャプテンをやらせて欲しいと伝え、3年以内にこのチームをチアの世界で名を知らないチームがいない状態までもっていくことを約束し、キャプテンとしてのチアリーディング人生がスタートする。

チアリーディングを社会人でも続ける人は、やはり本当にチアが好きで、成し遂げたい何かがあるから。

その仲間たちの熱さを全力で引っ張り上げることを決め、全国大会で勝つために、気持ち1つにやれるメンバーを集め始める。

まずやったことは、チーム内での競争を高めるために、メンバーを増やすこと。

高校の時の同期や、興味を持ってくれていそうな人に片っ端から声をかけ、このチームで全国大会の決勝進出して、名を轟かせることを一緒にやろうと勧誘し、この年の最後には、一時は10人くらいまで減っていたメンバーを17人まで増やし、全国大会5位を達成する。

この頃も興味があったのが、人をどうやってゴールに向かわせるかということ。

何をすれば、チームが前進していくのか。どんな生き様が人に影響を与えることができるのか。

小学校の教師として、この年、初めての卒業生を卒業させたが、この2点をとにかく磨き続けた1年だった。

前年度担任をしていた、本当に大変な生徒たちを2年連続で受けもったが、最後卒業させることができたのも、周りの先生方に支えられてだった。

教師としての技能がついた感覚はなかったが、どんな生き様で、何をすることで、人がついてくるのか。

そのことだけは学びとれた。

それは、
「自分が一生懸命にその目標に向かうこと」

これがあれば、人を巻き込んで、その通りになっていくことは、身をもって感じた。

小学校教師として、1・2年目で荒くれ者たちを無事に卒業させたこともあって、世直し部隊として、その学校で残りの2年間2年生と6年生の担任を務めることになる。

そして、この2年間で小学校の教師として、1年間でどう子どもたちを育てていくのかの粗方の感覚を掴む。

学級集団として成熟させる過程を学び、それを教科教育を使うことで促進させることができることも掴んでいく。

1・2年目は、前年度学級崩壊していた学年を担任していたので、子どもたちも、教師との信頼関係を構築するということを理解していなかったし、子どもたち同士でどう仲間になっていくのかということを理解していなかったので、僕自身も授業をする中で計画的に人間関係構築を仕込むというより、アクティビティやゲームなどもたくさん取り入れて、集団をつくるということに特化して指導をしていた。

しかし、アレンジすることがもともと好きなので、より生産性高く集団を作るのは、教科教育の中で、仲間同士の繋がりを作っていった方が目標達成には早いということも何となくわかってきて、その方法を模索する2年間を過ごすことができた。

そんなこんなで、あっという間に初任校での4年間が終わり、次の学校に異動することになる。

一方チアリーディングの社会人チームでは、キャプテン1年目で全国大会5位に入賞し、有頂天になって2年目を迎える。

今年も昨年と同様に決勝進出するぞと意気込んでいたが、今となっては分かるが、ゴール更新ができておらず、チームは全国にも少しは名を知られて、昨年と同様の決勝進出をゴールに置いていたため、完全な現状維持をすることになる。

当然結果も出ず、全国大会の準決勝で敗退することになり、悔しい1年を過ごす。
この時も、「何とかなる」という悪いマインドの癖が出て、やることをやらないと勝てないし、次のステージには行けないことを実感する。

ただ、この年に自分の才能の片鱗らしきものが垣間見えたのだが、全国大会出場の切符を賭けた地区予選の1週間前の練習で、チームの選手が1人大怪我をしてしまう。

チアリーディングは、他のスポーツと違い、怪我をしたら代わりの選手を入れてすぐにプレー再開という訳にはいかず、演技を再開するまでに多くの時間がかかる。
というのも、スタンツと呼ばれる人を投げ上げたりする組体操のようなものを練習するのに、タイミングを合わせ直さなければならないし、そもそもそれまでやっていた技が代わりの選手ができるとも限らない。

なので、他のスタンツを崩してメンバーを再調整して技を作り直したり、音楽に合わせてスタンツを行うので、移動の関係でスタンツが出来上がるタイミングをずらしたりと、やらなければならないことがたくさん出てくるからだ。
その選手が怪我したのも、大会でする演技を仮本番としてお客さんに披露する2時間前だった。

当時キャプテンだった僕は、怪我をした瞬間に演技を頭の中で再構成し、お披露目会でノーミスの演技を披露するまでチームをもっていき、翌週の地区予選も優勝して突破した。

極限の状態に追い込まれれば追い込まれるほど、チームのメンバーから頼られれば頼られるほど力を発揮することができることが自分でも良くわかった時間になった。

そして迎えた約束の3年目のシーズン。
今年こそは、決勝進出し、3位入賞するという目標(エンドステート)を定め、再スタート。

昨年度より多くの時間をトレーニングに割き、難易度の高い技も習得し、今年こそはいけると思ったが、またも全国大会準決勝でミスが出てしまい、決勝進出すらできなかった。

準決勝の後にチームのメンバーにも責任を感じて謝罪した。

ただ、この1年間本気で3位入賞というエンドステートに向き合って過ごしたので、若い選手も増え、日本の男女混成ミックスチームとしてチームは名を知られるようになり、当初自分が仲間に宣言した形はチームとしてつくることができた。
だから、この大会で現役選手を引退することを決めた。

同期との会議で決まり、プロポーズで薔薇100本渡そうとした


その後、チアリーディングで出会った妻と結婚。この時26歳。

このプロポーズをするきっかけになったのも、毎年年末に、高校でチアリーディングを一緒にやった同期と集まり、旅行に行っていたことがきっかけだった。
同じ社会人のクラブチームでキャプテン、メインのトップ(一番上に乗る人)として活動をし、当時付き合っていながらも何度も練習中、練習外でもぶつかり、同じ時にチアの現役を引退した相手と、これからどうするかを考えていた時、この旅行に行く。

その旅行での夜の食事の時に、

「今の妻と結婚するのか?」

と同期から聞かれ、

「どうしようかと考えてるんだよね。」

などと話していると、自分の中で気持ちも整理されてきて、こんなに多くの困難を共に乗り越えた妻と結婚するしかないと直感で思い、その場で結婚することを決断。

その旅行から帰ってすぐに婚約指輪を買いに行き、4日後にプロポーズをして結婚が決まった。

僕の人生は、こんな風に決断したらあっという間に進んでいき、決断をしたことを正解にしていくということがとても好きなことが、これを書きながらもよく分かった。

【社会人〜20代後半から30歳まで〜】

チアリーディングの現役を引退した数ヶ月後、初任として赴任した小学校から異動し、博多小学校という学校に赴任することになる。

この博多小学校は、「博多祇園山笠」という祭りが行われている地域の学校で、この学校への赴任も大きな転機となる。

この博多小学校に赴任した男性職員は、漏れなく博多祇園山笠に出ることになる。
というのも、この祭りが世界ユネスコ文化遺産にも登録されている800年程続く伝統ある祭りで、この伝統を守り抜くことを地域でも大切にしていて、それを守り抜くことを課せられているのが博多小学校でもあるからだ。

博多祇園山笠の面白さにどっぷりと浸かっていく


実は、この博多小学校に赴任する直前にチアリーディングの現役にも復帰することになる。

現役で活動しているメンバーからどうしても力を貸して欲しいと頼みこまれ、その時に、現役でももう少しやりたいという思いがあることにも気づき、現役復帰することを決めていた。

そんな中、山笠1年目を迎える。

チアの現役に復帰し、競技会に出場していたため、博多祇園山笠が開催される7月9日〜15日と、チアの全国大会の地区予選の日程とかぶっており、とても嫌な気持ちで過ごすことになる。

その当時は、自分の中で、チアリーディングの重要性が非常に高く、大会に集中したいというのが本音だったが、山笠や学校の地域行事にかなり多くの時間を取られるし、チアに集中できず嫌だなと感じていた。

しかし、いざ山笠が始まると、男の熱い祭りで非常に楽しく過ごす。

そもそも、博多の町の人間関係は非常にウェットで、年下の人たちは、ここまで山笠や色々な伝統を引き継ぎ繋いできてくれた年長者を大切にし、年長者はこれからの時代を引き継いでいく若手と呼ばれる若者たちを大切にするという「年輪尊重」の文化があり、ストレングスファインダーでも「親密性」が上位にある僕の信念にとてもマッチした。

そもそも山笠は、博多の町の総鎮守「櫛田神社」の奉納行事で、地域の無病息災を願って、山笠と呼ばれる神様を宿した神輿を男衆で担ぎ、博多の町を舁き廻る祭りだ。

その山笠を担ぎ、舁き廻る爽快さや、男同士の神輿の棒を取り合う激しさ、熱量。
そして、山笠が好きという共通の信念があった上での繋がりに面白さを感じ、どっぷりとはまっていく。

〜学校現場への疑問符〜


今でこそ、色々な地域から人が集まって山笠に参加しているが、山笠は本来、地域の神社への奉納行事である。

なので、地付の人間が神社に神輿を奉納する祭りとして成り立ってきた。
だが、地付の人間だけではなく、色々なところから集まる人で祭りを執り行うことで大きくなってきているのも事実としてあった。

山笠は7月9日から15日まで昼夜を問わず行事が行われる。

そのため、ある程度まとまった休みをとれる人たちでないとこの祭りに参加することは難しい。

そういったハードルも乗り越えてこの祭りに参加している人たちなので、会社でも地位のある方や自営の方など、自分の働き方に融通を効かせられる人たちが多い。

大学を出て、学校の教師としてまた学校に戻るというキャリアだった自分にとって、こんな風に色々な職種の方たちと触れる機会は非常に新鮮で、面白かった。

そうこうする中で、学校教師1年目から学校現場にいる自分に違和感を感じていたが、学校現場への違和感は大きくなっていく。

変化を嫌う風潮。年功序列のシステム。

そして、こんなおじさんになりたいと尊敬するような人が周りにいない状況。

教えることは好きだけれど、この現場に長くいることで描く未来に面白さをどうしても感じることができなくなる。

この頃、Youtubeで釣り、筋トレ、心理学、起業家などのコンテンツを観るようになっていて、影響を受けていた。

起業したい!と思ったのもこの頃で、学校では同僚に「俺は先生を辞めて社長になる」と言っていた。

ただ、自分が何が好きなのかは全然分かっておらず、起業するにしても何をしたら良いのだろうといつも考えていた。

〜社会人チームでの敗戦〜


社会人チームに復帰し、チアリーディングを仲間と心から楽しむという文脈はとても楽しかった。

キャプテンとして3年間で作り上げたチームが次の世代に引き継がれ、そのチームの中で自分のスキルや強みを発揮してチアをするのはとても楽しかった。

キャプテンをしていなかったのだが、実質キャプテンのようなことをしていて、役職はなくてもこれはこれで楽しかったし、当時のキャプテンは非常にやりにくかったこともあったと思う。

ここで分かったこともあって、自分自身、チームの中心でやれなければ面白さを感じることができず、他のポジションにいたとしても、自分がやりたくてやってしまうのはNo.1がやることだった。

つまり、「こんな未来をこのチームでつくろうよ」というWillを発信し、それを仲間に助けてもらいながら実現する。

この1点ばかりやっていた。

そして、細々した事務作業などは本当に無理で、やらないということだった。

この強みだけを発揮し、若いフレッシュなメンバーたちと、1年間全国大会の3位入賞を目標に練習に取り組んだが、この年も決勝進出できず、選手としての引退をすることになる。

この時のことを反省すると、「責任」を引き受けていなかったことが大きな要因だと思う。

マインドのカラクリとしても、RASの発火条件は責任を引き受けること。(※RASというのは、脳の焦点化機能のこと。このRASが発火するというのが、ゴール設定がうまくいっているかどうかの分かれ目になる)

僕自身はどうせNo.1の役割をするくせに、キャプテンという責任を引き受けず、1年間取り組んだことで、結果的にチームにも悪い影響を与える場面もあった。

自分の強みを理解したら、その責任を引き受けて前に進むのが最善だと、身をもって学んだ。

〜悶々とした日々〜


チアの現役を引退した後、ぽっかりと穴が空いたように暇になった。
なぜなら、本当に多くの時間をチアに使ってきていたし、寝ても覚めてもチアのことしか考えずに毎日を過ごしていたからだ。

チアの練習が生活からなくなると、悶々とした学校現場での仕事と向き合う毎日になる。
これまで毎日17時になったら定時退校し、チアの練習に行くというのが定番だったため、チアの練習に行かないこと、そして、土日も練習がなくなったことで手持ち無沙汰になる。

ここで、趣味をやろうとなって、やり始めたのが釣りとゴルフだ。

釣りは、祖父母が長崎県の対馬にいたこともあり、小さい頃から大好きだった。
仕掛けの準備から、餌の準備、そして、とにかく帰りに何か魚を持って帰るために立てる作戦、釣り場での直感的な判断。
その作戦がうまくいくか竿を出しながら待つワクワク感。

魚を釣って帰って、妻や友人、家族と魚を捌いてその日の食事として楽しむあの場が最高に好きだった。

なので、釣りが好きと言っても、バス釣りなどには微塵も興味が湧かず、釣った魚を食べるまで楽しむという海釣りしか今までにやっていない。(やろうとも思わなかったし、今もそれは変わらない)

釣ってみんなで食べるまでが釣り。

そもそも、僕のストレングスファインダーの上位資質が、司令性/個別化/親密性/アレンジ/内省なので、海釣りは、自分の得意な「親密性/アレンジ」の能力を遺憾なく発揮できるアクティビティなのだと思う。

それから、ゴルフにも熱中した。
カップにボールが入るまでのイメージをし、そのイメージ通りに自分の体も心もコントロールしていく、その感じが面白い。

併せて、親密な仲間と自然の中にいるということも面白い。

動作の原理原則を考え、実践し、習得することも自分にとっては面白く、この時期は本当に熱中した。

週3日は練習に行き、週末は値段の安い河川敷コースに気の合う仲間と行って練習の成果を試す。

試して、課題をみつけ、またそれを練習する。
とにかくそのサイクルを回し続け、1年くらいでベストスコアは90を切った。

趣味は本当に楽しく過ごしている一方で、仕事への違和感は増すばかりだった。
小学校教師として、これから30年くらい毎日を過ごすことを考えるとゾッとした。

とはいえ、毎日が楽しくなかったとかそういう訳ではない。

子どもたちと教室で過ごす日々は、面白い。
1年間で大きな成長を遂げるし、彼らはただ学校にきて、勉強をしているのではなく、それぞれ自分の人生を生きている。

仲間と遊ぶことに命をかけてきている子どももいれば、理科の時間の実験を楽しみに来ている子どももいれば、給食を楽しみに来ている子どももいる。

教室という小さな社会の中で、喜怒哀楽に溢れながら、たくさんの失敗をし、小さな成功体験を積み、豊かに生きるとは何かということを、肌感覚で掴みながら生きている。

キラキラと輝く彼らの表情を毎日見ることは面白いし、そこにやりがいも感じていた。

自分が担任するクラスは、毎年、所謂手がかかる子たちが多くいるクラスだった。
そんな子どもの多くは、大人(教師)を本当の意味で信じられなくなってしまっていた。

そんな子たちが教師を信じ、生き生きと学校生活を送っていけるように立て直すことを毎年やって、次の担任にバトンを渡していたという意味で、毎年成果を出し続けていた。

補足なのだが、子どもたちは、例えるなら真っ白いキャンバスだ。(もちろん、公立の小学校には様々な家庭環境の子どもたちがいるため、全員が全員という訳ではないのだが。)

「手がかかる」という表現はわかりやすくしたが、手がかかると感じているのは大人(教師や親など)であって、彼ら子どもではない。

教師という、大袈裟に言うと子どもを型にはめたい大人に対して、型にはまりやすくするという子どもを育てる必要があったことも大きな違和感になっていた。

ただ、一方で、学校という組織の現状のシステムでは、子どもたちを画一的に指導するのが悪く言えば手っ取り早い方法だし、社会からの教師への当たりも強くなっている昨今、管理職から教師たちへの要求も、口には出さないが、当たり障りなく子どもたちを過ごさせるということであったりもして、ここに中指立ててまでこの職業をやり続けたいのかというと疑問だった。

学校の現場では、1クラス40人の子どもたちを教師たちは面倒見ていかなければならず、ある程度の画一化が必要でもある。

公立学校は日本の公教育なのだから、戦後から今にも続く、所謂「日本人らしさ」を生むためにも軍隊のように統一化された教育を「躾け」=「社会性」と定義するなら、そいう意味で社会性を身につけさせることも必要なことだと感じていたし、これを教えるのが小学校教師の大切なところであることも理解していた。

でも、自分が教えたいことは、そういった人に合わせるということではなかったし、国語や算数などの教科教育がしたかった訳でもなかった。

自分が本当に心から成し遂げたいことに真っ直ぐに手を伸ばし進んでいくことや、親密な仲間達とチャレンジし続ける人生を歩みたいと望む人に必要なことを教え続けたい。

これが教育者としてやりたかった。

コーチングを学んで、今となっては、ここまでは言語化できているが、当時は違和感だけをひしひしと感じ、悶々として過ごす。

そして、望まない現状と未来から脱却する方法は起業だと思い込み、起業したい!ということを叫び続けていたのがこの頃だった。

当時在籍していた博多小学校は、地域行事がとにかく多く、この学校にいては、次の展開の準備もできないと感じ、異動を申し出た。

そんな矢先にコロナが襲来し、次の学校でのスタートをすることになる。

また、この年から本腰を入れてチアの指導者としての仕事もスタートさせた。
今までもOBとして母校の指導に携わってはいたのだが、この年から本腰を入れて母校の指導者としてチアの指導を始めることになる。

現役を引退したこともあり、指導する時間もとれ、指導1年目で全国大会6位入賞までもっていき、指導者として携わる面白さも感じることになる。

【社会人〜30歳以降】

〜新しい学校へ赴任してすぐのコロナ禍〜

忘れられない出来事の一つ


新型コロナウィルスが蔓延したことによって、新しい学校に赴任してすぐは、コロナ禍で学校が始まらなかった。

その後、マスクをしての学校がスタートしたが、このマスクと密集の回避が厄介だった。

自分が子どもたちに伝えたい親密性の大切さや、やりたいことを真っ直ぐにやらせるということが、この制限で難しくなった。

もちろん、そんなことは知らんとやっていたこともあるが、公教育の現場にいるからこそ難しいこともあった。

制限される煩わしさを強く感じ、この年は卒業生の担任をしていたこともあり、これを卒業させたら、学校を辞めようと思ったが、この年の子どもたちと向き合いきり、卒業させた時に、現状維持のパワーが大きく働き、もう1年やることにした。

一方で、チアの指導者に本腰入れて2年目だったこの年。

チアリーディングほど密接に人と関わる競技はないため、チアリーディングの大会そのものが開催されず、この年の卒業生は練習すらままならないまま1年間を終える。

実はこの年の卒業生たちは前年に6位入賞したメンバーが16人中12人残っており、かなり上位も期待できるメンバーだったのだが、大会自体が開催されず、それも叶わないまま卒業を迎えることになる。

この翌年の夏も通常ルールでの全国大会は開催されず、母校のメンバーも面白さを感じられず辞めるメンバーが続出し、チーム存続も危うい状況になる。

仕事はというと、卒業生を送り出した次の年、キャリアで初めて担任をせず、児童支援担当というポジションにつき、不登校の子どもたちや、教室では学習することが難しい、個別の支援が必要な子どもたちをどうしていくか采配するポジションについてスタートしたのだが、途中で病気で休まれた先生の代替として、再度卒業生を担任することになる。

この年を最後に学校を辞めようと決め、辞めることを学校長に話したが、次することが決まっておらず、引き止められて、残留。

このままではズルズルと教師を辞められないまま終わってしまうぞと、危機感を感じていたところに、Mindset Coaching Academyの話を先輩の先生から聞くことになる。

先輩の、アカデミーに入っての苦労話を聞いたりしているうちに、直感で「これだ。これで人生を変えられる。」と思って即入学した。

〜悶々とした日々からの脱却を決め、MCAに入学〜

人がどのように成長し、進化するのか。その理論を学び、自分に実践したいと直感で決め、Mindset Coaching Academyに飛び込んだ。(ちなみに費用は半年で80万ほど。今考えるとこれは格安だと思えるほどの変革とサポートをしてもらった。)

コーチングを学びたいなんてほとんど思っていなかったが、スクールがスタートし、コーチングの理論を学び、実践していくにつれて、これが本当にやりたかったことだし、やれたら最高だと感じるようになる。

しかし、今考えると相当な数の認知エラーを抱えて、変に自信たっぷりにMSAに入学していたと思う。

〜MSAに入学しても中々変わらない現実。そして挫折。〜

このアカデミーは半年で行われ、最初の3ヶ月間はとにかくコーチング理論の「自己適用」をする。

このアカデミーでは、セッションの質は自己適用の練度だということを非常に重要視している。

マインドのカラクリ的にもこれが本質で、コンフォートゾーンは臨場感が高い方に同調するという脳の本質があるため、ゲシュタルトのないものは、コーチングとして提供できないということだ。

だからまず、コーチングの理論を自分でやって、真の自分らしさ(want to)を使って、今までの自分らしくない挑戦をして、それを体感した感覚(ゲシュタルト)をもってコーチングセッションをしなさいと学校長から教わる。

同期たちはどんどん自分らしさを発見し、挑戦していく中、僕は「ベストボディジャパンに出場する」ということを挑戦に選ぶ。

筋トレは好きだし、もちろんイメージしたところまで辿り着くのはアレンジの才能も使って得意にやれることなのだが、このベストボディジャパンに出場するという1人で挑戦するというものを選んだことがミスだったなとも今となっては思う。

挑戦といってやっている時はとても楽しいし、筋トレと減量なので、やっている、頑張っている感もあるし、自分に酔ってやっていた。

今現在分かっている自分の得意な能力は「チームのゴールを設定し、そのゴール達成ができるようにチームのチューニングをする」ということで、チームがあって難易度が高いものに燃えるのだが、この時の挑戦はチームがないまま進んだため、自分の能力がめちゃくちゃ発揮されたという感覚はあまりなかった。

減量はできたし、マッチョにもなったけれど、優勝したりしたわけではなく、めちゃくちゃすごい成果がでたということもなく、この挑戦を終えることになる。

やったことに後悔はないし、この経験は今にも確かに生きている


しかし、すごい成果が出たわけでもないので、悔しいから次の大会にも出る!と言って次の大会にも挑戦したのだが、このコーチングアカデミーの卒業間近の大会を選んでしまったため、卒業したい!でも筋トレしたい!そして、減量で頭も朦朧とするという状況ができてしまって、コーチングに向き合いきれないまま卒業レポートも出せず、結果プロ認定をもらうことができなかった。

〜チアリーディング指導者としてアイデンティティの更新〜

このスクールの期間には、6〜7人に1人ずつメンターがいて、コーチングセッションをしてもらったり、分からないところは聞いたりしながら進んでいく。

その中で、仕事のゴール設定をしてもらう時に、自分のアイデンティティが更新される。

メンターであるコーチの方から、自分のwant toを抽出してもらい、自分は、チアリーディングの指導者だというアイデンティティを認識する。

当時、仕事は小学校教師だという認識だった。
というのも、最も報酬を貰って活動しているのが小学校教師だったからだ。

仕事とファイナンスがベッタリのタイプだった。(仕事の定義は、人の役に立つこととwan t toであること。ファイナンスは、お金の入りと出のことである。)

なので、チアリーディングの指導者として、人の役に立っているし、本音でやりたいことだったのだけれど、そもそも仕事として認識すらしていなかったし、自分自身がチアリーディングや、その指導が大好きだということにすら気づいていなかった。(報酬もバイト程度だしと思っていた)

しかし、セッションをしてもらう中で、チアリーディングの指導でやっていることと全くと言って良いほど同じことを小学校の教師としてもやっていたことにも気づき、自分のアイデンティティが更新され、やりたいゴールを「20年先の最先端をいく教育機関をつくる」とその時設定した。

そして、それをアカデミーの皆さんに向けて発信すると、突っ込まれることになる。

・本音で言っているのか?
・本当にそこに臨場感があるのか?
・どんな職業機能でそのゴールを設定しているのか?

脳は臨場感が高いものしかコンフォートゾーンとして認識しないというのがカラクリだ。

高すぎるゴールを設定しても、臨場感をもてなかった場合、それを脳はコンフォートゾーンだとは認識できない。

少し考えたら当たり前で、例えばレモンを丸かじりするというイメージをすると、自然と唾液が分泌されると思うが、それはレモンを食べたり、見たりしたことがあったりするからであって、その感覚がないと脳で認識することすらできない。

脳を動かすためには、未来のゴール世界をコンフォートゾーンにすることが最も大切なのだが、臨場感の全くないものであればイメージすらできない。

当時の自分は大真面目に本音で言っていると思っていたし、臨場感もありまくると思っていたし、職業機能はチアリーディング指導者で設定したゴールだ!と自信満々に思っていた。

そうは思っていたが、20年先の最先端をいく教育機関って何か全くイメージできていなかったし、そんな機関は何か、具体例を1つも言うこともできなかったし、自分が実際に現状やっていることから大きく乖離した、思考の中でこんなのがあったらいいなという妄想をしていた。(あったらいいなレベルのものでは、人は動かないし変わらない。未来のコンフォートゾーンより現実のコンフォートゾーンの方が強烈に優勢になってしまうからだ。)

このMCAのコーチたちからの介入に対しても、コーチとしての介入とドリームキラーの差分が取れておらず、そもそもコーチに対する認知エラーもあって、自分がやりたいことが「否定されている」と感じてしまっていた。(コーチとしての介入は、クライアントの未来を心底信じているからこそ、脳機能が最大化するゴール設定でなければ、積極的に介入していく)

この後、介入されることが怖くなり、自分がやっていることが本音なのかどうかもよく分からなくなり、発信することもできなくなり、自分に蓋をしたままスクール期間を過ごしてしまうことになる。

チアリーディング選手として、苦しい時でも明るく「演じる」ということが変に上手くなりすぎていて、上手に本音を隠しながら当たり障りなくスクール期間を過ごすという本当にもったいない過ごし方をしてしまい、前述したようにアカデミーを落第することになる。

〜自分と向き合うということを忘れ、ボディメイクにはまる〜

その代償として、同時進行で行なっていたボディメイクに「逃避」した。

本音中の本音の欲求としてのチャレンジをする、「自己適用」をするために、ベストボディジャパンに出場することを決めたはずなのに、それをすることで自分とは何者かを捉えるということから逃げてしまっていた。

当然その熱量で行なっていることに結果は伴うはずもなく、ベストボディジャパンの結果も振るわず、予選敗退。

MCAの卒業レポートは、有料セッションを行うことなのだが、そのコーチングセッションもそれまで本気でコーチになるという信念ではなく、自身が成長するという目的に勝手にすり替えて「挑戦」に取り組んでいたため、コーチとしてのスキルの積み上げもできていなかった。

だから、誰に対してコーチングを提供するのかということもふわっとした状態だったので、うまくコーチングセッションをすることもできず、卒業レポートをそもそも提出することすらできなかった。

何も成し遂げられないままアカデミーの卒業を迎えることになる。

〜MCA落第〜

落第しても、卒業式には参加させて頂いた。

卒業式では、半年間自分と本当の意味で向き合って合格した同期たちを目の当たりにする。

クズな自分を見つけ、そんなクズな中でも発揮する自分の才能と本音の欲求に気づき、挑戦し、更にコーチングのスキルとも向き合いきったスクール同期たちを見て、自分の半年間は何だったんだと一気に後悔の念が巻き起こる。

学校長からは、

「お前筋トレばっかりしてる場合じゃねえよ。」

とお話しいただき、本当にその通りだと感じる。

卒業式の後、集まりは3次会まであったのだが、コーチングにそもそも向き合いきれていなかったので、同期との繋がりも大して作れておらず、みんなの前でこれまでのことやこれからのことを語ることもなく、会が終わる。

「何をやってたんだ本当に。」ということをみんなに伝えれば良いものも、人に良く見えるように振る舞うということだけ上手になってしまっていたため、コーチたちからの介入も恐れ、結局ほとんど発言もできないまま帰ることになる。

本当に人生にぽっかりと穴が空いたような時間だった。

〜落第してもコーチングができない自分の人生はイメージできない〜

こんな卒業式を迎え、現実に戻るが、MCAでは1ヶ月間は卒業レポートのチャレンジを続けることができる。

合格した同期たちが、卒業式までの合格に間に合わなかったメンバーのサポートをするために動いてくださって、僕もチャレンジを続ける。

コーチングは人の人生を前に進めるために、最も有効な手段であると身をもって実感もしていて、自分の才能・want toが明確に分かった時には本当に鳥肌が立ったし、それが自分の本音だと分かった時には自分の行動も一気に変わったし、何をする時が心から楽しいのかもはっきり分かるようになった。

これをセッションとして提供することは、人の成長をサポートしたいという欲求がある僕にとって、絶対に必要なことだと感じていた。

そして、できる根拠のない自信があった。(エフィカシーという)

この時、何とかなるとは思っていなかったが、スイッチが入るのがあまりに遅すぎた。

だから、1ヶ月では合格基準に到達することはできず、合格の認定を頂くことはできなかった。

〜新たな未来をつくるために決断〜

それでも、諦めきれなかった僕と同じように、合格認定を貰えなかったけれど、再チャレンジを続けるというメンバーを同期がサポートしてくれて、更にチャレンジを続けることにする。

それにあたって、自分自身の自己適用も進める意味でも、合格をもらった同期からコーチングセッションをして頂く。

その中で、自分はチアリーディングの指導者として人の成長を支援することを決め、小学校の教師を退職することを決断する。

決断は文字の通り、決めて断つのだが、ゴールが決まると、それに必要のない現状は断つことが必須で、そうすることで、ゴール世界のコンフォートゾーンに必要な情報が入ってくるようになるのがマインドのカラクリだ。

チアリーディングの指導者としてこれから生きることを決めた時に、生徒が体と向き合う場が必要だということに創造的無意識が働き、トレーニングをするジムをつくることにする。

決めて作るまでは本当にあっという間だった。ゴールに必要な決断が未来を作っていくのは本当だった。

〜小学校教師を退職〜

この決断をしたのが11月頃で、ここからはあっという間だった。

まず、小学校の校長に退職を決めたことを伝え、退職への手続きが始まる。

辞めると言ってから数年経っていて、これまで辞められなかったのは、何を成し遂げることに自分の人生を使うのかということが腹決めできていなかったからだということがよく分かった。

この時退職の意思を伝えた時にも、学校長から引き留められたが、この時は全く揺るがなかった。

既にゴール世界にコンフォートゾーンが移動していたので、小学校教師を続けることは違和感でしかなかったからだ。

それから自己資金を叩き、店舗を借りて機材も入れ、ジムが完成したのが1月最初。

2ヶ月でジムが完成し、1月から最初は無料で生徒たちがトレーニングをし始める。

ジムはつくったものの、どうやって経営していくかは決まっておらず、ここからこのジムをどういうジムにしていくか、走りながら考えることになる。

Invent one the way
「決断が先。プロセスが後。」

ということを正に体現した感覚があり、ゴールを設定して決断し、ゴール世界に必要な情報を現実に集めると、あっという間に現状のCZが変わる、そのゲシュタルトをとることができた。

〜退職することがゴールとなり、誰に何を提供するかが不明瞭なまま過ごす〜

あっという間に退職を迎え、自分の新しいトレーナーとチアリーディング指導者としてのアイデンティティでの仕事が始まっていくのだが、ジムをつくった後からなかなか前に進めなかった。

それは、自分のゴールが「退職すること」にいつの間にかなっていたからだった。

それに気づかないまま4月になり、僕は人に教育する会社「合同会社T-ch」を設立する。

この会社も何をするかは決まっていなかったが、会社を設立したいという欲求のままに作り、一人社長になる。

同時にジムの店舗名は、FitnessGym O-enとし、挑戦を応援するジムとして改めてスタートを切る。

そして、チアリーディングの指導者としてのゴールも設定していたが、日本一を獲るということをエンドステートに置いて、母校の指導者、そして、僕を指導してくれていたチアの指導者がつくった幼稚園から中学生までの選手たちが所属するジュニアのクラブチームの指導者としてスタートした。

スタートしたもののファイナンスはズタボロで、退職金を消費していく生活がスタートする。

〜再びチアリーディング指導者としても挫折。(自分が挑戦していないことに何となく気づく)〜

この年のチアリーディングの夏の大会は、自分が指導しているチームは全チーム目標を達成することができなかった。

日本一どころか決勝進出することすらできなかった。

選手と共に涙し、再スタートを誓った。

大会後に振り返ると、自分一人の力で日本一になるというエンドステートをやりきるのは難しいことに気づいた。

コーチングの師匠からも「絶対他力」でやるべきと習っていたが、いつの間にか自分が頑張ることが挑戦していることだと認知のエラーを起こし、進んでいた。

僕が過去の経歴の中でもどうやってチームを全国大会の上位にあっという間に進出させているかというと、「チューニング」をしている。

ゴールイメージを持ったら、それを達成しないと気が済まない。

失敗しても、何度でも立ち上がり、挑み続ける。

それが僕のソースオブエナジーで、これをやっている時は、苦しいがめちゃくちゃ楽しい。

イメージのポイントは、難易度が高く、多くの人が関わっていること。(多ければ多いだけ面白いが、密に関わるメンバーは30人くらいが最高だと感じる。)

このたくさんの人たちのもつ才能や本音の欲求が複雑に絡み合って、一つの目的に向かっていることを面白く感じ、その本気度が高ければ高いほど燃える。

ただ、常勝チームよりも、ここからチャレンジをするチャレンジャーたちと向き合う方が面白く、どうやって常勝チームを出し抜き、倒すか。

そんなことを考えるのがめちゃくちゃに面白く感じる。

そんなチームに出会うと、そこに入り込んで、どこをどうチューニングしていけばそのチームの最高の状態を作れるのか。

そこを考え、人のマインドに介入しながら進んでいく。

これで、大きな変革をチームに起こしてきた。

ここは、本当に息を吸うようにできるし、チームの状態をよく観察してそれぞれの能力を把握できれば、必ず最高の状態を直感で作り上げていくことができる。

これが、僕の才能であり、この自分の才能の範囲では、力を発揮することができる。

でも、自分の才能の外に関しては、他の人の方が才能があり、そこをその人たちに委せることで、前に進んでいくことができる。

自分で全て指導し、達成しようと考えていたが、頼れるところは頼ってたくさんの人の力を借りてやった方がゴールに辿り着くのは早いと感じた。

次の年からは他の人の力を借りること。絶対他力で進んでいくことを決める。

そして、同時にこの夏は、博多祇園山笠でも節目を迎える。

僕は、博多祇園山笠は、7つの「流(ながれ)」があり、追い山と呼ばれる最終日の祭りのフィナーレでは、1流ずつ順番に櫛田入りと呼ばれる清道入りをして、博多の町に出発していく。

僕は土居流に所属しているのだが、この年は土居流が一番山笠といって、追い山で一番最初に櫛田入りをする流であった。(一番山笠の櫛田入りは7年に一度しかない、名誉ある役回りである)

更に、この土居流は9つの町内で成り立っており、この土居流全体のお世話をする町内である当番町を僕の所属する中土居町(なかどいまち)が行う年であった。

一番山笠の当番町。僕はその中でも若手頭(わかてがしら)と言って、町内の若手を取りまとめる役割を任されていたため、5月頃からその準備に奔走し、無事に7月の奉納を終えることができた。

そうこうしているとチアの夏の全国大会で、自分の始めたジムや会社はほとんど何も進まないまま9月を迎える。

〜自分のビジネスと向き合い始める〜

数名の会員様はいらっしゃって、チアの子達がジムに通える仕組みは作っており、トレーナーとしても活動はしていたが、ビジネスとしてもジムのコンセプトも明確にして進み始めなければ、ジム自体を継続することができないと焦るのが9月末頃。

毎日ジムのコンセプトを考え、ダイエットではなく、動作を鍛え、スポーツで挑戦をしたい人たちに向けて、ファンクショナルトレーニングを提供するジムとして改めてスタートをすることを決めた。

Mindset社のYawara Training Academyでも学び、体を動かすとはどういうことなのかの解像度を高め、トレーニングを提供すると決めたのは良いものの、どうやって集客をするのかという壁にぶつかる。

トレーニングの中身には自信があっても、人が来なければ提供はできない。

そんな時に、インスタグラムでフォロワーを集めることを始める。

イメージしたものに向かってコツコツと物事を進めていくのは得意だし、好きなことなので、企業のコンサルタントをしている後輩に頼み、インスタグラムでの集客をどのようにすれば良いのか助けを求め、手伝ってもらうと、1月頃にはあっという間に1700人ほどのフォロワーを集めることに成功し、少しずつそこから集客ができ始める。

そうこうしている時に、コーチングを学んでいたMCAから再チャレンジのお誘いをいただく。

〜MCAからの再チャレンジのオファーをいただく〜

2023年の12月の末頃に、コーチングアカデミーは卒業したものの、アカデミーからのプロコーチ認定を貰っていない人に向けて、再チャレンジの機会を頂く。

コーチングに出会ってからというもの、人の成長・進化をサポートする上で、コーチング技術は必須であることをひしひしと感じていた。

再チャレンジのお誘いを受ける丁度2年前にMCAを卒業した後も、年に数人はクライアントを見つけ、単発のコーチングセッションを提供し続け、卒業レポートを作成しようとは取り組んでいた。

しかし、一人ではなかなかうまくいかず、熱中して取り組むということもできていないため、スキルもなかなか成長せずに過ごしていた。

チアリーディングの指導やトレーナーとして対人支援を仕事にしている中で、コーチングアカデミーで学んだことは本当に生きていたし、そもそもコーチングマインドをもって人と関わることで、人が成長していくことも肌で感じていた。

そのような背景もあったので、自分がプロコーチの認定を受けていないことに大きな違和感も感じていたし、アカデミーをやり抜けなかったことがずっと心に引っかかり続けていた。

そして、自分の人生でコーチングができない状態というのが全く想像できなかった。

なので、Mindset,incの方からお話を頂いた時には、二つ返事でお願いしたし、ここで絶対に仕留めることを心に決めて再チャレンジをスタートさせた。

〜再チャレンジグループで「何とかなる」の再来。そして書き換えての再チャレンジ合格〜

この再チャレンジで自分自身に誓っていたことが二つあった。

一つ目が、再チャレンジに関わる方たちからの介入を恐れず、むしろ積極的に介入していただき、正しい方向へと導いてもらうためにも自分の脳内を常にアウトプットしていくことだった。

アカデミーの期間に、一度介入してもらってから、「人に自分をよく見せる」という殻に閉じこもってしまい、自分の本音をFacebook・SNSなどの情報空間に出すことができていなかった。

この頃には、そもそもコーチからの介入自体が、相手の未来の姿を信じての介入だということもやっと理解できてきていた。

再チャレンジに関わる皆さんは、自分たちをプロのコーチになれるように必要な介入をしてくれる貴重な存在なのだから、自分のRが揺らぐ(現実に違和感を感じる)ことは覚悟しつつ、安心して自分の内面を開示し、とにかくプロコーチとして必要な自己変革をすることを腹決めした。

二つ目は、自分の才能、want toを積極的に使うということだ。

自分の才能は、チームの前進をするためのチューニングをすることで、そこは息を吸うかのようにできる。

この再チャレンジも20人くらいのチームで行い、(途中からはメンターチームに変更され、より少数のチームになった)全員がプロコーチになるという共通のゴールをもってこの再チャレンジに臨んでいた。

このゴールを達成するために、自分の才能とwant toを使いまくることを腹決めしていた。

だから、皆が躊躇しそうなこと(グループの中での積極的な発言や自己開示など)をどんどんやり、自分の得意ではないスケジューリングや細々した作業は積極的に人にお願いした。

ここの二つは絶対にやり切ると決めてスタートしたのだが、自分の悪い癖も同時に表出する。

自分自身、決めたことをやり切る力はあると思うのだが、(かなりマイペースに)少し慣れてくるとすぐに「なんとかなる」と思って行動量が減る悪い癖がある。

これでアカデミー在学期間も失敗しており、再チャレンジがスタートしてしばらくすると、それと同じことが起こり始める。

上記の二つを実践し、2週間が過ぎた頃、「何とかなる病」にかかる。

丁度この頃、チアリーディングで指導しているチームの競技大会間近であり、それを言い訳にして、「時間がなくてコーチングのタスクができていない」とメンターチームの報告会でメンターとチームのメンバーに伝える。

すると、メンターであるプロコーチの方から

「このままいくと恭平さん、また合格できないですね。」

と介入してもらう。

めちゃくちゃハッとした。(コーチングでは「Rが揺らぐ」と言う)

メンターから続けてこう言われる。

「Facebookで見ましたけど、アカデミー在学の時にも、ベストボディジャパンで忙しいとか言って、結局コーチングのタスクをやりきれず、プロコーチの認定を貰えてませんよね?今って、それと同じ状況ではありませんか?」

僕は、その通りですとしか答えられなかった。そして、このままでは本当にやばいし、またあの時の二の舞になる。

そんな未来は絶対に嫌だと思った。(CZの引越しができる状態にしてもらった)

これ以降、タスクは期限までに終わらせていき、無事卒業レポートを提出し、合格。

アカデミーからプロコーチ認定をしていただく。

本当に、これもメンターの方のコーチングの威力で、この介入によって、このままいくと起こる未来(コーチングではこれを「現状」と定義している)がとんでもなく嫌になって、今のコンフォートゾーンにいるのが気持ち悪くてたまらない状況になった。

そこで、プロコーチになった自分というコンフォートゾーンに引っ越すことができ、そのマインド(脳)でアウトプットを出していった結果、プロ認定を受けることができた。

本当に、メンターの方、そして再チャレンジメンバーがいなければ絶対にプロ認定は受けることができなかったと思うし、この座組を作ってくださったMindset,incの皆さんには感謝しかない。

そして、改めてコーチングは人を変える力があって、世の中に必要な機能だと実感した瞬間でもあった。

プロコーチとしてのキャリアもスタートを切る

〜再チャレンジ合格。そして、プロコーチコミュニティに入ってからのエラー(人との比較。憧れ。承認欲求。)〜

コーチングの卒業認定を受けると、コーチングを提供し、Not normal&Unselfishにな人生を世界中の人に届けるという挑戦をするプロコーチの皆さんが集まって研鑽するプロコーチグループに招待していただき、ジョインさせて頂く。

このコミュニティは、プロコーチしかいないため、クライアントが現状の外側に挑戦する伴走をするためにも、まず自分の人生に向き合い、挑戦をし続けている方しかいない。

そんなレベルの高いコミュニティの中に入らせていただいた時に、自分はまだ全然だという現状のセルフイメージをもってコミュニティと関わってしまう。

自分と比べて、他の先輩コーチたちはレベルが高くて、すごい。

そこに憧れ、そんな人たちに認めて欲しいという承認欲求も強く働き、コミュニティの中で発するコメントにもそのマインドが反映され、先輩コーチから介入していただくことになる。

自分自身では全くそんなつもりもなかったが、クライアントの挑戦をサポートするために自身も挑戦し続けるというマインドセットがなくなり、いつの間にか人と比較し、他人の人生を生きることになってしまっていた。

コーチングでは、want toと呼ばれる本音の欲求に従って、ゴールを設定し、ゴールを達成するために脳を動かし、自分の人生を歩んでいく。

そのそもそもが崩れてしまっていた。

〜MCA卒業式での出来事〜

再チャレンジで合格した僕たち再チャレンジ合格者は、学校長がけじめをつけることも大切と言ってくださり、MCAの9期の卒業式で、9期生と一緒にプロコーチの認定証を授与していただくことになる。

前述した、プロコーチグループで僕に介入をしてくださったコーチは、コーチングアカデミーのメンターもされていたため、その卒業式の場でお会いすることができ、お話しさせていただく。

そこで、

「できないことをできるにしていく、その過程をゲシュタルトと言い、今の匹田さんはそれをやろうとしておらず、全く魅力を感じない。」

ということを伝えて頂く。

認知エラーなので、自分では全くそんなつもりはなかった(気づいていない状態)が、実際にその話をしていただいた後に思考整理すると、他者との比較によって自分の人生を全く歩んでおらず、挑戦する生き様のかけらもない状態だったので、本用にその通りの状態だった。

後日、1on1の時間もいただき、コーチングセッションをして頂く中で、自分自身がチアリーディングの指導者として設定していたゴールを達成するために、自分自身がまずは挑戦し、成し遂げる「ゲシュタルト」を掴むことで、人の成長を本当の意味で支援できる存在になっていけることを認識し、自分のビジネスを社会にインパクトを残すものにすることに挑戦することを決め、今までのセルフイメージを手放すことができた。

そして、卒業式でプロ認定をいただく少し前に、クライアントとの契約も決まり、プロコーチとしてのキャリアもスタートした。

【誰のための自分として生きるのか】

自分の人生を振り返ると、本当に山あり谷ありの人生を送っている。

ほんの1年半前まで小学校の先生をしていたなんて今では全く想像できないし、それをやっていた自分の感覚が思い出せない。

毎日学校に着くたびに悶々としていた気がするし、本当に大切な教育の場であるべきなのに、作業のように毎日が流れていくことさえあった。

自分が何をして生き、何をして死ぬのか。

その指針が固まってきてから、あっという間に現実は変わっていき、これからまた新たな人生をスタートさせようとしている。

そんな僕の山あり谷ありの人生は、ちょっとうまくいくと、最低な自分が出現し、周囲の支えでそれに向き合い、乗り越えるというものだった。

自分のエフィカシー(自己効力感)の高い場所は、実はどん底の状態の時で、もがき苦しんでいる状態の時に這い上がって目標を達成する、そんな場所である。

だから、すでにめちゃくちゃうまくいっている人を更にうまくいくようにするということには全く興味が湧かず、現状ではやばいと感じているがどうして良いか分からないという状態の人やチームをどうにかチューニングしていくことに大きなやりがいを感じるし、自分もいつもそういう渇いた状態でいたい。

もがき苦しみ、その「渇き」を乗り越えた時に見える景色を仲間と一緒に楽しみたいというwant toがあるからだ。

これらを踏まえて、僕は、「ジャイアントキリングを起こしたいスポーツ指導者」の力になります。

ジャイアントキリングは、僕が小さい頃から大好きなこと。

小学校の教師をしている時も、所謂「問題児」というレッテルを貼られた子どもたちを、一人前に育て、クラスのリーダーとして生まれ変わらせることをやり続けてきたし、チアの指導者としても、ここから全国に名を轟かせる挑戦をするチームの指導をしてきたし、実際にそうしてきた。

0を1にするよりも、1を10にすることがとても得意だということも気づいた。

なので、コーチとして人生を180度変更し、とんでもない自己変革を経て、指導チームのジャイアントキリングを起こさせることをお約束します。

あなたのチームのチューニングもできるし、指導者であるあなた自身のチューニングもやり切ります。

そうして、僕と出会わなければ起こることのなかったであろうジャイアントキリングの伴走ができたら本当に最高だと思っています。

認知科学的にも、コンフォートゾーンは伝染する。

だから、ジャイアントキリングを起こしたいと願う方の伴走はお任せください。

・本気でチームを変えたいと思っているけれど、自分だけではどうして良いのか分からない。
・こんな成績には満足できない。
・小手先のテクニックを試してきたがうまくいかなかった。
・選手一人一人の本質に迫った指導がしたい。

こんな思いをもつスポーツ指導者の方たちのサポートがしたいんだと固まったし、これからそんな人のサポートができると思うとワクワクする。

最後まで読んでくださって本当にありがとうございます!

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